先日板取宿で改修中の茅葺き屋根の様子を見ることができましたので、その様子をお届けします。
この見学会には町の方など約10名が参加されました。
この人が茅葺き屋根葺きの職人さんです。
御歳88歳!! しかも現役です!!
この家を見学です。
う~~~む、ちょっと屋根が急こう配・・・・・・・。
落ちないだろうか???
調査した当時の絵が残っています。
ヘルメットをかぶって上ってみると・・・・・、
思ったより屋根が急こう配です。
それでも、はしごを上って隙間から中をのぞくと・・・・・・・、
丸太が突き刺さったようになってます。 この部分は正面のひさし部分です。
上から下を見ると・・・・・、落ちたら絶対に死にます。
これで茅を奥にたたき込んでいきます
で、あとは刈り込んで揃えます。
昔ははさみだったんでしょうけど、今ではガソリンのバリカンです。
カヤを押し込む時には木槌も使いますが、下半身も使います。
腰の動きが大切です。 これのほうが効率がいいみたい。
中から見るとやはり木が繋がれていません。縄で括りつけてあるだけです。
一通り見学して・・・・・・・、三々五々解散となりました。
ここで板取宿のミニ歴史を・・・・・。
板取宿は柴田勝家が織田信長の居城である安土城に赴く近道として、天正6年(1578年)に栃の木峠を大改修した時以来発展してきた宿場です。
それ以来、木の芽峠に代わりに人馬の往来が頻繁となりました。
木の芽峠越えの北陸道に対し、栃の木峠越えの道は北国街道と呼ばれました。
栃の木峠を南下すると木乃本に至り北国脇往還の道として関が原へ、西に進めば長浜を通り京、大阪に向かいます。
栃の木峠を越える北国街道が整備されると、越前南端の重要な関門の地として板取宿がおかれました。
宿馬30頭、人足60人が常備され、北国街道の玄関口として、あるいは近江越前両国を結ぶ要の宿として発展しました。
江戸時代には、初代藩主結城秀康が慶長6年に関所を設け、往来者を取り締まりました。
後に板取番所として藩士が駐在しました。
番所の構造は間口3間、奥行き3間の平屋建てを設け、刀、弓、火縄銃、具足を備え、厳重な警戒に当たり役人3人足軽一人が常駐していました。
幕末のころには、戸数が上板取33戸、下板取が20戸で人口は300人、旅籠7軒、茶屋3軒、問屋3軒があり旅人の往来で大変賑わったそうです。
農繁期には田畑の耕作や製炭、養蚕などが行われ、農閑期には草鞋や草履を売っていました。
現在残っている民家は平成4~5年に解体復元し、その管理は生活することを条件に貸し出しています。
また、平成7~8年に「歴史と文化の地域づくり事業」として、公衆トイレ、駐車場、石畳、電線の地中化、公園の整備、遊歩道の整備を行いました。
国道365号線を通るときには、すぐそばにあるので通られる時には立ち寄ってみてくださいね。
12月ごろまでは改修工事が行われています。
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